神戸の町

DesignActsの第2の拠点は神戸である。ここでは復興計画に向けたリサーチや、コミュニティセンター/ 部室の建設に関わる諸々の書類作成を主に行った。

南三陸町をはじめ、東日本大震災の復興を考えるうえで、阪神大震災後の神戸の復興プロセスはとても参考になるように思う。当然ビルの林立する市街地での直下型地震と沿岸部の津波被害とを比べるわけにはいかないが、町が作り直される過程を知る上では、たとえばHAT神戸を中心とする港湾部の都市開発を見て歩くだけでも、大いに意味があるように思う。(以下写真はHAT神戸、生田川公園)神戸で過ごした日々は、一方では町を散策しながら復興へのイメージを育みつつ、もう一方では数々のアイディアを議論・図示する作業に没頭していた。DesignActsの“強み”の一つ目は、国内外の多様な文化・バックグラウンド・専攻をもつ学生が集まっていることだと思う。たとえば、時には海外の事例を引き合いに出しながら、コミュニティ形成、あるいはインフラの整備といった多くの課題に対して、解決の糸口を一緒に議論することができる。二つ目はそういった議論の中から抽出されたアイディアやコンセプトを図示するスキルがあることではないだろうか。ダイアグラムとして簡略化したり、実際の見え方をコラージュして示したりすることができる。

こうして生まれた我々、第三者のアイディアに対して、町の方々がどのように受け取るのか?、どのような反応を示すのか?という点がものすごく楽しみである。

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モックアップ

歌津中学校で建設を予定しているコミュニティセンター/ 部室の建物デザインや構造について、いろいろな方々のアドバイスいただいた。なかでも京都の町で木材加工・伝統工法に詳しい方々から多くのコメントをいただくことができた。建築学科の学生と実務バリバリのプロの方との壁をまじまじと感じながら、双方のやりとりを眺めていた。写真は積み木ブロックを積んだモックアップの様子である。もとは廃材である多くの杉ブロックをいろいろ組み合わせ、様々な利用方法を考えようという試みである。

京都と南三陸町。だいぶ距離が離れているが、復興への思いは同じである。ものすごく熱心な議論ができたと思う。

「素晴らしい歌津を作る会」定例会議

2回目に訪れた時(6 月17日)に「素晴らしい歌津を作る会」の定例会議にお邪魔することができた。歌津地域の各区長さんが集い、各集落での状況を報告し合い、また復興に向け た意見交換の場として機能していた。都市計画の地図を見ながら区長さん達が将来の町のヴィジョンについて話し合う姿勢は圧巻だと思った。当然のことながら 皆地域のことをものすごくよく理解している。三陸道の延伸計画や歴代の山の所有者のことなど、である。こうした深く地域のことを知っている人達に対して、 我々第三者が計画云々に意見したり、口出したりするのは相当難しいと思った。会議の席上、「では果たしてアーバンプランナー・アーバンデザイナーの役割と は何だろうか?」としみじみ考えてしまったのを覚えている。この問いに対して明確な答えを出すのはまだ早いのだけれども、専門家としてのアーバンプラン ナーの立ち位置、あるいは地元の方々との関わり方に関して、自分なりに少し考えることができたのはすごく意味があったように思う。

この会議は各地区の地区長さん(60代~)を中心とする集いだったそうだが、契約会(この地域に伝わるコミュニティの単位)の会長さん(40~50代)が集う会議もあるそうで、こちらの方はさらにもっと白熱した議論が展開されるということを伺った。是非ともそちらの会議にも参加したいとも思った。

 も う一点印象深かったのが、定例会議を仕切る「素晴らしい歌津を作る会」の会長さんの手腕であった。複雑多岐にわたる情報の把握・処理、ギクシャクなりがち な会議の場をまとめ上げるリーダーシップは熟達したものだった。余談になるが、「素晴らしい歌津を作る会」の会長さんの話を聞いていると、修士の時にお世 話になったある地方都市の自治会長さんのことが思い出された。この方も地域内での統率力が卓越していて、周囲からの信頼も絶大であった。二人の共通点をふ と考えてみたら、共にフットワークが軽いこと、姿勢がいいことなのかと思った。主観的な意見ではあるものの、言い換えると、この二つの点はコミュニティの 中で信頼を得るための大事な素養・心構えなのではないか、とも考えられた。こうした基本的なことは、もしかしたら「部外者」として町を訪ねてきた我々に とって是非とも見習うべき点なのかもしれない。

最 後に、上の写真は歌津の町の中心に近い高台にある神社からの写真である。カメラを向けつつ、この場所からの光景が今後どのように変わるのか?、以前のよう に復旧されるのか?、高台移転のために人気がなくなるのか?、などいろいろと思案を巡らせていた。命・財産・生業・文化・コミュニティといったものを、何 十年に一度襲ってくる津波・何千年に一度襲ってくる大津波からいかに守るか、という決断に今迫られている。地元の人々の意向、災害の脅威を考慮に入れた都 市・緑地計画をたっぷり時間をかけて練っていく必要があるように思う。定例会議はそのための一歩であった。

歌津中学校の様子と取り組み

歌津地区は南三陸町第2の集落で志津川地区より北東に車で30分ほどの所に位置し、津波被害前の居住人口は約5000人、主に漁業の町として栄えてきた。6月中は12日と17-18日の2回にわたって歌津地区を訪問した。

リアス式海岸特有のV字谷の地形(三角州の低地部)に中心市街地が広がり、家屋・漁業関係施設・国道45号線が津波によって大きな被害を受けた。町を見晴らすことのできる高台に小学校・中学校があり、津波は小学校の1階部分まで浸水したという。高台から中学校の校長先生に津波の襲ってくるまでの描写をうかがうことができた。津波が到着するまでの異常な引き潮・20分おきに深夜まで襲ってきた幾重にもわたる津波・1波よりエネルギーの増幅された2波3波の方が強烈であったことなど、筆者の予想していた津波の印象とだいぶ異なったので印象的だった。中 学校の体育館は避難所として利用されており、また両校の校庭の隅に仮設住宅が設置されている。難を逃れた格好の平場として「校庭」が挙げられるが、先生方 の意見としては、子供たちの部活動・遊びの場が少なることへのジレンマも同時にあるようだ。仮設住宅は中学校校庭に37棟並んでおり、コミュニティセンターに類する施設は併設されていない。仮設住宅内に集会所を設置する明確な基準があるのか否かについてはまだはっきりとしないが、歌津地区内でもある所とない所がある。校 庭脇にはバイオマスボイラーを用いた銭湯がある。メインの機器であるボイラーと、燃料となるヤシの実の殻・乾燥汚泥は無償で提供されたそうだ。古くから人 と人との結びつきの強いこの地域において、銭湯の入り口のちょっとしたスペースが憩いの場となっている。関連して、現在仮設住宅内に津波被害を受け枯死し た杉材を用いたベンチを設置する動きがあるようだ。この取り組みには、倒木による危険を回避すること、地元の大工さんたちに仕事を提供すること、コミュニ ティ内の親交を深めることという3つのアドバンテージがある。こういったシステムを提案することが我々に求められているのではないかと思った。

歌 津中学校内の限られたスペースの中で、学校関係者・仮設住宅内居住者の生活環境をよくすること、コミュニティの輪をいかに取り繕うかという課題に対して、 我々は“モノを作る”ということで応えたいと考えている。たとえ仮設だったとしても、利用者のことを最大限に考えた使い勝手のいいものを作りたいという願 いがある。そのためには、どんな人々が、何を、どこに欲しているか、そしていかに人々に愛されるものを作るか(提案するか)ということを考えていく必要が あるように思う。避難所、仮設住宅にお住まいの方々・学校の先生方、生徒たちとの話し合いを通じて、あるいは「作る」という作業を協働することによって、 こうした疑問符が少しずつ取れていくのではないだろうか。

被災地の姿

仙台から車で北に70-80km。平野部の米作地帯から東へと進路を取り、急峻な北上山地を抜けるとポッカリと拓けた漁村に出る。震災被害前の人口8000人の志津川は南三陸町で最も大きな地区であり、町中心を流れる八幡川に沿って官公庁・商業施設が密集する。

志津川地区内の中枢となるエリアは津波によってほぼ壊滅状態になる。我々が訪問した6月中旬は震災後3か 月を経過しており、当初予想していた臭いや危険個所はほぼなく、徐々に次のステップに移行しつつあることを伺えさせた。それでも志津川地区は家屋の倒壊率 が高く、また元々の居住人口が多かったこともあり、復興に向けた話し合いや取り組みが他地域に比べてやや難しいようである。

視察に当たって、志津川町内で半壊した家屋に許可をいただきお邪魔することができた。普段の生活と津波の脅威が隣り合わせで描写されるとより一層、そのリアルなつめ跡を体感することができた。

志津川を含め、三陸沿岸の町を視察して回ると、津波のつめ跡が地域によって異なるということがよく分かる。建物の並びや素材、湾の開口部の広さなどが、その後の被災地の光景や津波の威力を決定付けたようだ。

たとえば女川町の場合は平地が少なく、湾の幅が狭かったということで、コンクリート製の構造物(冷蔵施設だと思われる)でさえも横倒しになっている。志津川の場合はほとんどの木造住宅は倒壊・流されているものの、コンクリート造の施設は横倒しになってはいない。

南三陸町内でも歌津に近い名足や泊崎の集落は、細い半島のくびれ部分に位置するため、両側から津波の被害を受けた。そのため、以前の土地の履歴や境界までもが消え失せてしまっている。

 一方で石ノ巻のように建物は残っているものの、地盤沈下によって満潮時に潮が上ってきてしまうような市街地も存在する。

自明ではあるがこうした沿岸地域は、“地形”が集落の形・生業を決め、と同時に津波による被害状況をも決定づけたといえる。当然被災の状況が異なれば、復興 へのプロセス・足並みも異なる。三陸沿岸の各地域を見て回る中で、復興への道のりが一筋縄ではいかないもどかしさを感じていた。