被災地の姿

仙台から車で北に70-80km。平野部の米作地帯から東へと進路を取り、急峻な北上山地を抜けるとポッカリと拓けた漁村に出る。震災被害前の人口8000人の志津川は南三陸町で最も大きな地区であり、町中心を流れる八幡川に沿って官公庁・商業施設が密集する。

志津川地区内の中枢となるエリアは津波によってほぼ壊滅状態になる。我々が訪問した6月中旬は震災後3か 月を経過しており、当初予想していた臭いや危険個所はほぼなく、徐々に次のステップに移行しつつあることを伺えさせた。それでも志津川地区は家屋の倒壊率 が高く、また元々の居住人口が多かったこともあり、復興に向けた話し合いや取り組みが他地域に比べてやや難しいようである。

視察に当たって、志津川町内で半壊した家屋に許可をいただきお邪魔することができた。普段の生活と津波の脅威が隣り合わせで描写されるとより一層、そのリアルなつめ跡を体感することができた。

志津川を含め、三陸沿岸の町を視察して回ると、津波のつめ跡が地域によって異なるということがよく分かる。建物の並びや素材、湾の開口部の広さなどが、その後の被災地の光景や津波の威力を決定付けたようだ。

たとえば女川町の場合は平地が少なく、湾の幅が狭かったということで、コンクリート製の構造物(冷蔵施設だと思われる)でさえも横倒しになっている。志津川の場合はほとんどの木造住宅は倒壊・流されているものの、コンクリート造の施設は横倒しになってはいない。

南三陸町内でも歌津に近い名足や泊崎の集落は、細い半島のくびれ部分に位置するため、両側から津波の被害を受けた。そのため、以前の土地の履歴や境界までもが消え失せてしまっている。

 一方で石ノ巻のように建物は残っているものの、地盤沈下によって満潮時に潮が上ってきてしまうような市街地も存在する。

自明ではあるがこうした沿岸地域は、“地形”が集落の形・生業を決め、と同時に津波による被害状況をも決定づけたといえる。当然被災の状況が異なれば、復興 へのプロセス・足並みも異なる。三陸沿岸の各地域を見て回る中で、復興への道のりが一筋縄ではいかないもどかしさを感じていた。

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